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[シャシーナンバーについて]
生い立ち
シャシーナンバーから1963年に生産されたMGBであることはわかっていた。だが、それがいつ海を越えて日本の土を踏んだかは想像するしかなかった。
思えば、たしかに1963年の当時、日本語で印刷されたMGBのカタログが存在した。ガレージのMGBには、キロメートル表示のイェガー製スピード計が装備され、当初からディーラーオプションとおぼしきナショナルのラジオが付いていたなど、残された事実をつなぎ合わせてみると、最初期に西洋の端の島国からやってきた一台という憶測がわき上がる。
さて、どれほどの数がいつ頃、日本へ陸揚げされたのだろうか。
またぞろ英語の本「Original MGB」を紐解いてみると、1963年に英国を出た右ハンドルのMGBは、531台ほどあったと記録されている。世界的にみて右ハンドルの自動車が使われている豊かな国はニュージーランドと日本くらいしかない。
さらに、ボディナンバー「MGB012763」がラインを出たのは、同年5月から8月までの間であることから、おそらく7月前後と推測することができる。これが「G/HN3-13033」の生い立ちである。
故国に思いを馳せて
MGBは岩国の街へやって来たとき、すでに色を変えられていた。
さらにリアサスペンションを支えるリーフスプリングも後年の物があてがわれ、スプリングを吊すシャックルは激しく傷んでいた。フロントサスペンションに組み込まれたコイルスプリングは、トラックか何かのそれのように太く、堅いバネが短く切断され挿入してあり、ほとんどバネの役目を果たしていなかった。
室内のトリムを外してみると、リアのウィングパネルには巧みな溶接の跡が見てとれる。おそらく腐食してしまったパネルを取り替えたのだろう。まだある。ウィンドウレギュレータは空回りし、キャブレターはスロットルスピンドルから余計な空気を吸い込み、ディストリビュータは進角を行えないほどイカれていた。
前オウナーが何をしたかわからない。しかし、何人かの手を経て、苦心を重ねて、なおしたたかに生き長らえたMGBを思うと、どうしても捨て置けないのである。
このMGBで、かつては競技に参戦したこともあった。スプリットキャブレターを装備し、ハードなサスペンションを設え、アクセルペダルは床まで踏み込んで走った。だが、そのたびにMGBは悲鳴を上げるように調子を崩し、ときには壊れ、ガレージで昏睡した。
やれば走る。やった分だけダイレクトに反応を示す。決してエランのように速くはないけれど、ドライバーの要求に応えようとして老兵は、必死で走る。
もう、いいだろう。
ずっとまえ彼が──MGBが異国の地へ足を下ろしたときと同じように、おおらかに走ろうではないか。朴訥とした走り方で、故国の長閑な田園風景の中を散策するがごとく、ゆっくりとハンドルを握って。
低いウィンドウシールドの向こうに、アビンドンの煉瓦が見えるかも知れない。
MGBは、心情的なスポーツカーなのだ。